岡山ママブロガーのマイコです。
私の尊敬する人の一人、ノートルダム清心学園理事長を務め、ベストセラー「置かれた場所で咲きなさい」の著者:渡辺和子さんが12月30日にお亡くなりになりました。
教員一年目の初任者研修で、幸運にも岡山に所縁のある渡辺和子さんの講演を聴くことができました。
その佇まい、口調、存在感。
すべて同じ人間とは思えない気高さを感じました。
直接話なはできなかったけれど、私の中では強烈な出逢いでした。
講演の内容の詳細はもう覚えていないけれど、渡辺和子さんに魅了されてすぐに本を読みました。
神様、私にお与えください。
自分に変えられないものを受け入れる落ち着きと、
変えられるものを変える勇気と、
そして、その二つを見分ける賢さを。
『ニーバーの祈り』
『ニ―バーの祈り』は、たまたま読み返していた渡辺和子さんの本から引用したものです。
この本を読んでいたころに渡辺和子さんがお亡くなりになったのかと思うと、なんだかメッセージを受け取ったような気持ちです。
渡辺和子さんはキリスト教徒のシスターです。
その一生は決して平たんな道ではありませんでした。
渡辺和子さんの本はどれも素晴らしく学ぶことだらけですが、先日読み返していた時に学び直した気持ちになったことを紹介したいと思います。
一期一会
私は「一期一会」という言葉がずっと嫌いでした。
なんだか寂しい感じがするからです。
素晴らしい出逢いではあるけど、短期間で終わり、ずっと続いていく縁ではない。
そんな冷たい意味のように受け取っていました。
だけど、「一期一会」とは、そういう意味ではなかったことが分かりました。
渡辺和子さんの「一期一会」についての記述です
「この人と、この機会を外して二度と逢えないかも知れない」という危機感からくる出逢いのありがたさを表すものであろうし、明日の生命の保証のない私たちにとって、それは決してオーバーな考え方ではないのである。
「死は盗人のように来る」と聖書に書かれている通りで、来ることがわかっていれば、皆用心しているだろうに、死は、思いかけない時、ひそやかに訪れてくる。
だからいつも警戒していないといけないのに、私たちはあまりにも無防備に生きている。
過ぎていく一日の貴重さ、一つ一つの出逢いの大切さを忘れがちに生きているということなのだ。
『愛をこめて生きる』より引用
渡辺和子さんは2・26事件で突然父親を殺された壮絶な過去をお持ちです。
前の夜まで一緒にお風呂に入って父子で話をしていたのに、その父が翌日にはもういない。
そんな経験があるから、この「一期一会」の言葉の持つ真意も痛いほど理解されてのお言葉だと思います。
「相性」についての記述も勉強になりました。
いい出逢い
「出逢い」とは美しい言葉であり、多くの場合、相手との最初の邂逅をさして言われる。
「あの人と、あの時に出逢っていなかったら今日の私はない」それも確かにそうであろう。
しかし、最初の出逢い以上に大切なものは、同じその人と、絶えず新たに出逢うということではないだろうか。
馴れてしまわないということ。
それは「一期一会」の心構え、緊張感と言ってもよい。
相手の中にも、自分の中にも、「未見の我」とでも言うべき未知の部分があることを忘れず、いつも新鮮に、心を込めて人と出逢う時、それは、はからずも「いい出逢い」を作っていることになるのである。
『愛をこめて生きる』より引用
毎日顔を合わせている人でも、明日また会えるとは限らない。
いつ「一期一会」の瞬間になってしまうのかわからない。
そんな緊張感をもって人と向かい合うこと、一日、一瞬を大切に生きる事。
なかなか現実にその通りにできないけれど、頭の片隅にそんな意識をもって人や時間と向かい合うことができれば、その質を高めることができるかもしれない。
「求めよ、さらば与えられん」というみことばは決して、求めたものが与えられると約束していない。
私たちは往々にして”欲しいもの”を願っている。
しかし神が与え給うのは、私たちが、”必要としているもの”であり、そこ神の愛がある。
何を与えられようと、それを”祝福”として受け取れること。
それが祈りの真に求めるべき果実ではないだろうか。
『愛をこめて生きる』より引用。
渡辺和子さんはもういません。
また講演を聴きたいな、何となしに思っている間に、あの新採用研修の講演会が、私と渡辺和子さんとの「一期一会」瞬間になってしまいました。
話を聴きたい人、会いたい人には積極的に自分から会いに行くこと。
きっとその機会はたくさんある。
いつ最後の時が来るかわからない。
「一期一会」
素晴らしい方がまたこの世を去ってしまいました。
でも、残されたメッセージは、私をはじめ、多くの人の心の中に確実に息づいています。
心からの感謝の気持ちを込め、ご冥福をお祈りいたします。