2022年7月7日。
義理祖母が亡くなりました。
91歳でした。
義理祖母の自宅にて、家族葬でお見送りをしました。
おばあちゃんは、十分に長生きをしたので、みんながさっぱりとした気持ちで迎えたお葬式でした。
お正月とお盆、GWなど、年に数回会うだけでしたが、いつ帰省してもあたたかく迎えてくれたおばあちゃんでした。
義理の父や叔母の話では、『こうでなければ!』が強い人で、周りは大変な時期があったとのことです。
孫嫁の私にとっては、いつも気持ちよくお迎えしてくれる優しいおばあちゃんでした。
人にはいろんな顔があります。
誰かにとっては大事な人でも、誰かにとってはとても許しがたい人であったりします。
人生で出会う人が、自分のことをどう思うかは、コントロールできないことです。
その時々の精一杯の自分で生きた。
その瞬間を分かち合った人が、良くも悪くも、その時々にいます。
儀式中のラジオ体操
焼き場から骨になった祖母を自宅に連れて帰り、最後の儀式が始まりました。
厳かな雰囲気のなか、神主さんが、
「それでは、これから○○の儀を執り行わさせていただきます。」
と言った瞬間に、町内ラジオ放送で『ラジオ体操第一』の曲が元気よく流れてきました。
田舎なので、毎日決まった時間に町内放送が家じゅう聞こえるように響きます。
虚を突かれるとはこのことです!
義理の弟が「え!?この曲で始まるん??」と驚いて言った瞬間、もうそこにいた全員がおかしくてたまらない(笑)
今にも祖母が元気にラジオ体操を始めそうで!
神主さんは偉いですよね、すぐに冷静に儀式を再開されました。
それがまたおかしくて、隣にいた次女と目が合いました。
2人ともなかなか笑いが止まりませんでした。
あの時のお互いの顔を、2人ともきっと忘れない。
あの感覚
あの瞬間、あの場所にいて、同じことを体験したからこその、あの感覚。
言葉にできない、「ともに在った。」この強烈な実体験。
目で見えない、さわれない、写真で残すこともできない。
突発的に起こり、二度と同じ瞬間はない。
こういう瞬間が人生の宝なんだろうと思いました。
何ができたとか、何をどれだけ持ってるかとか、
何ができないとか、獲得できなかった何かとか、
そういう一切が介在しない瞬間。
どれだけたくさんこういう瞬間を共存できるのか。
そういう言葉にしようもないけれど、確かにあるあたたかな瞬間が多ければ多いほど、人は豊かに生きたいえるんじゃないかと思いました。
疲れて帰ってきた後、やっぱり我が家が最高だと思うあの感覚。
やり切った安心感とともに慣れた布団で眠りにつくまでのおしゃべりの時間。
順番に寝ていく子どもたち。
横に転がってるボロボロのぬいぐるみ。
「生」に感謝しました。