久しぶりに体調を崩し、二日ほど寝込んでいました。
幸いコロナではありませんでしたが、胃腸炎にかかり、しんどい2日間でした。
自分のキャパを超えて動いたら、身体はきっちり止めてきますね。
思い描いていた週末とはずいぶん違った時を過ごしました。
鳥の羽音
念のために隔離した部屋で子どもたちにも関われず、何もできずにころがっていると、庭にやってくる鳥たちに気がつきました。
秋が深まり、色づき始めた庭木に、一時、羽を休めに降り立つ鳥の羽音。
鳥の羽音を静かに聞いたのはいつぶりかなぁと思いました。
子どもの頃は、延々と自然の中で遊んでいました。
鳥に気づかれずにどこまで近づけるかチャレンジしたり…。
子育てをしていると、よく自分の子どもの頃の、記憶が思い出されます。
ふいに訪れた何もできない時間も、自分の子どもの頃の感覚を呼び覚ましました。
大人になると、いつの間にか何でも自分で調整できるような気になります。
思った通りに事が運ばなかったらがっかりしてみたり。
思えば20代、30代は傲慢でした。
40代になってから、自分が勝手に期待したり想像したことなんてほとんど意味のないことで、なぜだか分からないけどとにかく目の前に起こることがいつも最適なことなんだと思うようになりました。
鳥の羽音はメッセージ。
気が滅入るような出来事が起きても、気を滅入らせているのは自分の思考。
捉え方は自分で前向きに変えられる。
起きた出来事はすでに過去。
まだこんなことを体験したかったんだなぁと、浮かんだ瞬間にひたすら「教えてくれてありがとう。」って、手放していく。
誰にどう思われようが、何を言われようが、全く関係ない。
その境地まで、あと一歩まで来た気がする。
アラン 幸福論より 抜粋
上機嫌は獲得すべき技術である。
人の考えはほおっておくと悲観的になる。
悲観的な考えが浮かんだら、それはただの妄想だと思うようにする。
不機嫌な人はいつも犬みたいなうなり声をあげて吠えている。
一方、上機嫌な人はいつも穏やかで落ち着いており、自分自身の犬をしつけている。
人間は、自分の考えていることを表現したいなら、自分を律しなければならない。
気品とは言葉遣いや所作が美しいこと。
誰かのことを傷つけたり不安にしたりしない。
礼儀とはつまり習慣であり、自然と現れるもの。
不幸になったり不満を抱いたりするのは難しいことではありません。
誰かが楽しませてくれるのをただ待っている王子様のように、座っているだけでよいのです。
幸せを待ち焦がれ、品物のように値踏みする人には何もかもが退屈の色に染まります。
私は彼らから行き場のない苛立ちや憤りを感じるのです。
それは創意工夫によってわずかなものから幸せを作り出すことのできる人たちに対するいら立ちや憤りです。
私は、そんな人たちには近づかないことにしています。自ら進んで退屈している人を楽しませることはできないと、これまでの経験から十分に分かったからです。
幸せになるのはいつだって難しいのです。
たくさんの出来事やたくさんの人たちに挑んでいかなければなりません。
その戦いに敗れることもあるでしょう。
しかし、全力で戦ってからでなければ、決して負けたと思ってはいけません。
幸せになろうと思わなければ、幸せになることはできません。
これはとりわけ疑いの余地のないことだと思います。だからこそ、幸せを求め、幸せを作り出さなけれなならないのです。
幸せになることは他人に対する義務でもあります。
よく、幸せな人だけが愛されると言われますが、幸せな人が愛されるのは当然の見返りなのだということを忘れてはいけません。
私たちが吸い込む空気には、不幸や憂鬱、絶望が混じっています。
だから、この毒気に打ち勝ち、生気あふれる姿を見せることで、平凡な日々の暮らしの中で一服の清涼剤となってくれる人には、感謝の念と勝利の栄冠をささげなければならないのです。