【倉敷】【真備】西日本豪雨発生から10日間。情報発信と個人ボランティアの動き

岡山ママブロガーのマイコです。

西日本豪雨で被災した真備地区の薗幼稚園で、3連休託児ボランティアを開催しました。

詳細は下記リンクに書きました。

災害発生から10日間の記録

平成30年7月7日豪雨発生から、忘れないうちに10日間を振り返ります。

7月8日

7月8日避難勧告がでていました。

高梁川決壊に怯え、水位を見守りながら情報を絶えずチェックし、自宅でどうすべきか、なんとも言えない時を過ごしました。

7月9日

総社市役所前、ボランティア隊出発式直後の様子

高梁川の水位が落ち着いた7月9日の朝より、総社市社会福祉協議会にて情報発信ボランティアを開始しました。

正式な情報市長のツイッター以外に何もなく公式な機関からの確実な情報が欲しかったからです。

市役所に到着すると、すでに大勢の学生ボランティアが集まっていました。

駐車場は人でいっぱい。

ツイッター上『大人も行っていいの?』『自分も行く!』など、たくさんのつぶやきが行き交っていました。

このままだと混乱するとおもい、総社社会福祉協議会へ。

SOSU(素数)という子育て支援ボランティアの申請を5月にしたばかりだったので、ボランティアは社会福祉協議会の管轄だとわかっていました。

総社社会福祉協議会へ行き、

  • 総社のブロガーで、普通の人よりはSNS発信に慣れていること。
  • 個人という無責任な立場だからこそ、最速にメッセージを発信できること。
  • ハッシュタグ付きツイッターで、今反応しているツイッター利用者にはすぐに情報が伝わること。
  • 個人は信頼性に欠ける発信力が弱いので、公的な機関からのツイッター発信。HP発信が必須なことを伝えました。

次長(後にご近所と判明!)がまだ到着していないホームページ担当の職員にすぐに電話連絡

その方がきて体制が整うまでの間、とにかく私が決定事項と発信内容を確認しあいながら、どんどんツイッターにつぶやいていきました。

ホームページ担当者到着後、すぐにツイッターアカウントが作成されホームページでの発信も開始。

お横の席に座って総社社会福祉協議会と私がどんどん#拡散希望でつぶやき、発信していきました。

災害対策本部の会議の場所へも駆けつけました。

社会福祉協議会のゼッケンをつけ、部屋の外から聞こえてくる情報を集めました。

市長が、学生がたくさん集まったことに対し、『これは総社の夜明けだ!』と暑く語られている声が聞こえてきました。

『支援物資はとにかくなんでもありがたくいただくこと。』など、どんどん指示を出していました。

市長のリーダーシップ柔軟な対応スピードの速さは、本当に素晴らしいと思いました。

対策項目の最後に真備地区への支援も上がっていました。

吉備路クリーンセンターのことだったのかもしれません…。

7月10日

総社市役所支援物資受付場所と真備の様子。

翌10日午前も総社市社会福祉協議会のボランティアセンターで活動。

総社福祉センター3階にボランティアセンターが立ち上がり、その中に入って昨日と同じ発信活動と雑務

その間もずっとツイッターの情報を常に確認してはリツイート等していました。

次々と寄せられてくる情報をもとに正確な情報の発信に最新の注意を払いました。

全てちゃんとできていたとは限りませんが、信憑性がわからない情報はわからないことを含めて発信。

総社は発信体制が完全に整い、私がこれ以上ここにいるより水が引き始めた真備へ行ったほうがいいと思いました。

ラインを通して被害がなかったことを知っていた友人の実家:神原呉服店真備の状況を教えてもらおうと電話。

そこが今真備の拠点になり、自主的にどんどん動いていることがわかりました。

正しい情報を発信する。

今の私が、この状況で一番生かされる仕事は、微力ながら情報発信だと思っていました。

高校の同級生の友達は、岡田地区で被災し、自宅・実家・親戚・兄弟、全て浸水

自分で開いている英語リトミックに来てくださっていた、お子様のご家族も、大勢被災…。

知り合いも多数いて、真備の被災はとても他人事ではありませんでした。

総社のボランティア本部に今までのお礼と真備へ行く旨を伝え、また必要なときにはお声掛けくださいと伝えてその足ですぐに真備へ。

7月10日午後より真備町市場にある神原呉服店にて自助共助を支援する活動が始まりました。

神原呉服店って何!?

神原呉服店が実家の高校の同級生がいてそのお姉さんが災害看護の専門家

高知県立大学大学院看護学研究科の災害看護ご専門の教授でした。

日頃から、しょっちゅう海外へ行き、ネパール等、災害現場へ行きご活躍されている話は友人より聞いたことがありました。

神原呉服店は、自宅へ帰れない知人避難者の方を数名民間避難所として受け入れ、託児も実施。

お姉さんの人脈で呼び寄せたNPOボランティア等たくさんの団体の方が訪れ宿としても機能。

店舗はいつの間にかボランティア団体が行き交う事務所となっていきました。

 

なんだかすごい場所にたどり着き、これからどうすればいいのか、こんなことをしていいんだろうか…。

誰もが経験したことがないような状況の中で、正解なんてありませんでした

誰も教えてくれません。

本当に自分にできるんだろうか…。

正直怖かったし、葛藤しながらも自分にできることをとにかく必死でやっていきました。

7月11日

薗小学校避難所:オレンジの服神原先生と、すぐに駆けつけてくださった災害ボランティアの方々。岡田地区のゴミの様子。

11日は娘を幼稚園へ送り、家の片付けをした後神原呉服店へ。

薗小学校の避難所を訪れ、神原先生と一緒にまわらせていただくことでたくさんのボランティア団体の方に出会いました。

災害関係のすごい名刺が飛び交う中、名刺すら持たないただの主婦が一人紛れ込んでいました。

帰りに、被災した友達のお家に初めて顔をだし明日から手伝う旨を伝えました。

7月12日

7月12日 真備岡田地区の道の様子。

12日は娘を幼稚園へ送ったあと、雑穀米のおにぎりを握り、鮭・飲み物・アイス・ゴミ袋・汗ふきシート・消毒液など、いろいろと持参し、友達の自宅の片付けを手伝いました。

何を持っていったらわかりませんでしたが、避難所ではご飯が少ないようで、たくさんのおにぎりは喜んでいただけました。

栄養剤とかかっていこうか?と言うと、野菜が無いからせっかくなら野菜ジュースがほしいとの声を聞きました。

水や清涼飲料水ばかりで味のある飲み物がほしいとのこと。

日やけ止めマウスウオッシュなど、必要なものを聞き取って帰りました。

やはり、現地に行くのはすごく大切なことだと思いました。

私が友達の立場でも手伝いをお願いするのは、遠慮をして言いにくいと思います。

実際に顔を見て手伝いながら話すことで、少しずつ、こちらからの支援を受け入れてもらえるようになったと感じました。

押し付けにならないように、どうすればいいのか迷いながらでしたが、行ける人がすぐに駆けつけることとても大切だと思いました。

午後15時に神原呉服店へ。

神原先生と今後の相談をしながら様々なボランティアの方に更に出会いお話を聞きました。

素晴らしい方がたくさんいらっしゃることに心底感動しました。

3連休を目前に控え、子どもがいたら片付けに集中できないだろうと思い、3連休の託児ボランティアついて薗小学校の校長先生に相談しました。

校長先生は本当に素晴らしい先生です。

いつも明るく、超ご多忙にもかかわらず、いつも笑顔で的確で更に素早い☆

とても柔軟に対応してくださり『薗幼稚園で、ぜひ、やってほしい!』との回答をすぐに出して下さいました。

ラインやフェイスブックを通じて一斉に声掛けを開始しました。

一方で気になるのは、現地の片付けの様子。

皆様暑い中、大変な状況を前に自力で黙々と作業されていました。

お年寄りも片付けに追われ、重たい荷物を運んでいました。

総社が早い段階で大勢のボランティアを即時に派遣していたのを間近で見ていたので、どうしてこんなに時間がたっても全くボランティアが来ないのか、私にはその時よくわかりませんでした。

そして、もうすぐ3連休。

やっと、ボランティアがたくさん入るだろうと少し安心していました。

初日のバスによるボランティア派遣渋滞が原因で中止になっていました。

現場は人が欲しくてたまらないのに到達せずにそのまま帰ってしまった…。

なんてことだろうと思っていました…。

子供の寝かしつけを終え、急に3連休中の自主ボランティアの方の動線について何の公式な発信がないことに気が付きました。

明日(金曜日)中に情報が発信されないと、渋滞で大変なことになると思いました。

ボランティアセンターに繋がりのある方に確認したところ、今のところ誰も動いてないのでは、との話。

これ以上、また渋滞で復興が思うように進まず誰も助けの手が入らなかったら、現場の衛生状況がさらに悪化し、連日の片付けで体力も落ちている被災者の方の精神的なダメージも大きいのではないかといてもたってもいられませんでした。

神原呉服店のお父さんがおっしゃっていました。

『こんな時、メンツも何もそんなこともう関係ない。』

目立つ行動をすれば必ず批判される恐怖が伴います。

それでもやるかどうか…。

夜中にドキドキして眠れず、フェイスブックで呼びかけ、早朝から薗小学校の校長先生にメールを送り、被災地からも要望をあげるようにメッセージ。

総社市対策本部の方にも、無理は重々承知でしたが早朝から電話して、なんとか総社にも対策をしてもらえないか訴えました。

総社はこれ以上できないくらい精一杯やっているし、倉敷からの要望がないと動けないとのこと。

とにかく、いろいろな人に渋滞回避策の必要性を声掛けして回りました。

思えばこの行動が、その後の岡田地区への団体ボランティアの手が入るように奔走する活動スタートでした。

この行動は、果たして意味があったのかなかったのかはわかりません

夜、支援者の方が集まる会議が倉敷であり、そこに出席したボランティアの方にボランティア渋滞について話が出ていたと後から聞きました。

一人、迷惑なだけのお騒がせな人だった可能性もあります。

恥ずかしいですね…。

ただ、私のような一般の人が混乱するほど情報がなかったのは確かです。

これだけ情報が瞬時に飛び交う社会になり、それが当たり前で生活をしていることにも気が付きました。

こういった非常時はみんなが必要な情報をわかっている範囲内でもいいからすばやく流すことはとても大切だと思いました。

今回の災害のように周りの誰も経験したことがないような非常時は常に出たとこ勝負です。

やってみないと分からないことの連続です。

全て、後になれば結果論です。

その時は本当にわからなかった。

常に、そんなことの連続です。

被災地は電波が弱く、電話もままならない。

ネットにも繋がりにくいことこの上なし。

確かなことは直接会いに行って聞かないとわかりません。

薗小学校の校長先生が『口伝』と言われていましたが、まさに伝言ゲームのような世界で、ありとあらゆる問題が生き物のように姿を変えながらどんどん動き、変容していきます。

7月13日

13日は同じく幼稚園へ子どもを送り、昼から被災した友達の家の片付けへ少しだけ行きました。

こんな時までウッカリが発動し、おにぎりを忘れていくという大失態!!

いくら車を探してもなくて、頭の中は真っ白…。

被災者の友達に逆におにぎりをもらってしまいました…。

笑って許してくれましたが、最悪なボランティアっぷりに落ち込みました…。

急に私が忙しくなり、生活が変わったことで家庭にもストレスが貯まり始めました。

子どもを預けている母にはとうとう嫌味を言われ、子どもがやたら甘えるようになってきました。

だんだん雑務が増えて忙しくなってきたので、なかなか友達の家の片付けを手伝う時間が取れなくなってきました。

友達はクタクタに疲れていても、どうしようもない現状を前に休めず、大変な様子を見ていますので1時間でも手伝おうと思いできるだけ通いました。

目薬メモリーカードなど、本当に必要なものをリクエストしてくれるようになりました。

とんちんかんな支援にならないので本当に必要なものを教えてくれるのはとてもありがたかったです。

被災地では大切な人に情報が届いていないことを実感していたので、被災した知人には自分が得た情報を積極的にラインで送りました。

これも、送るべきかどうか、情報はあっという間に変わるし、逆に迷惑ではないか、葛藤しながらも続けました。

その後、14時から薗小学校の避難所対策会議:薗の会に出席。

高知市の災害ボランティアの方に、これから地元で継続支援をしていくならこの会議には出席したほうがいいと言われました。

相変わらず自分の立ち位置や状況がよくわからないけれど、自分の得た情報をもとに被災地の現状と託児の計画を伝えました。

託児ボランティアについて詳細が決まり、現地リーダーとなるOさんと出会いました。

Oさんは薗地区のお母さん

ご自宅と薗小学校を行き来し、学童保育の支援もしています。

Oさんの熱い想いに触れ、一人ではないことに安心し、元気が出ました。

気になるのは、岡田地区のボランティア派遣について。

シャトルバスでの団体ボランティアを現地で振り分けをするリーダーの方と、スタッフの方に、明日から川辺・有井・箭田ボランティアが入ると聞きました。

岡田は拠点となる場所がわからずテントが建てられない。

マッチングする運営側も人が足りないので、岡田地区へボランティア派遣してもらうためには、ボランティアセンターへ電話かメールをするか、まび記念病院へとりあえず自分できてニーズを上げないとダメとのことを知りました。

私が軽四ででも送迎したらどうかと提案したら、とにかくニーズを上げにまび記念病院まできてと言われました。

岡田で拠点になる場所も探すように言われました。

7月14日

薗小学校の張り紙

あまりにも看護師が足らず、岡田小学校の避難所に神原先生から急遽派遣された神戸在住の看護ボランティア:Yちゃんと出会い、3日間早朝から真備へ一緒に通いました。

2人で情報交換をしながら通う時間は、少しだけホッとする時間でした。

6時半に神原呉服店に到着し、Yちゃんを岡田小学校の避難所へ送り、そのまま薗小学校の避難所へ。

呼びかけで集まってくださった託児ボランティアの皆様と合流

託児を開始しました。

前日にご連絡いただいた読売新聞さんもきていました。

取材の対応をどうしたらいいのか、よくわかりませんでした。

子どもの写真を使うことについて聞かれたので、親の許可をとってほしいと伝えました。

現地はOさんに任せて他の雑務へ。

岡田地区のボランティア派遣のことで、まび記念病院へ行こうとするも渋滞でたどり着けない。

時間を有効に使うため、連絡して他のことにチカラを向けることにしました。

被災地の様子は刻一刻と変わり、今、皆さんが求めているのは被災した建物の処理方法だと思いました。

神原先生にも、当初から水没後10日間がとても大切と聞いていました。

きりがないように思える片付け作業の出口がどこなのか。

どこまですればいいのか。

今後の見通しのニーズをひしひしと感じていました。

神原呉服店へ戻り高知市災害ボランティアの方建物についての疑問を率直に話しました。

すぐに相談に乗ってくださり、横浜市立大学の建築専門の先生が来られることに。

お電話をいただき私に会いに来てくださることになりました。

大学の先生が私を訪ねて明日来る!

すごい展開で私なんかが受けていいのか、でも、ありがたいのでお願いすることにしました。

シャトルバスでのボランティアは全く入ってくる様子はない。

岡田地区にボランティア拠点を作る方法を必死で考えました。

神原のお父さんに相談し、岡田地区の町づくり協議会の知人に連絡をしたらどうかと言われました。

神原のお母さんの友人だったので、すぐに連絡してもらい現状を説明。

『自分自身も被災し、下原地区の爆発の会議もある。一分一秒も惜しく、ニーズ調査や拠点探しはとてもできない。』とのこと。

それはそうだろうなぁと心から思いました。

16時に薗幼稚園託児のクロージング。

情報交換をして薗小学校に報告。

取材の方がたくさん来られて、どうしたらいいのか困ったとのことだったので、

相談した結果、翌日は取材をお断りすることにしました。

被災地の現状をお伝えしていただくことも大切なことなので、お断りしたのも良かったのか悪かったのかはわかりません。

ただ、この時はそんな冷静な判断もできず、子どもたちに安心して過ごしてもらうことを優先しました。

神原呉服店へ戻り、情報交換。

帰宅後、『やりすぎるな。』と実家で忠告を受ける。

心配しているのはわかるけど、総社市内に入ると温度差がすごくて家に帰ると気が緩みいちいち突き刺さり、泣きが入る。

7月15日

薗幼稚園での託児受け入れの様子。

朝6時半に待ち合わせ、Yちゃんを岡田小学校へ送りました。

その足で薗幼稚園の託児へ。

保育士さんも大勢駆けつけてくださり、頼もしい限り。

Oさんとスタッフの皆様に昨日の確認事項を伝達。

現場をお願いをして神原呉服店へ。

看護師のYちゃんから『岡田小学校の避難所は看護師が全く足りず、本来するべき仕事がぜんぜんできていない。明日には自分も帰るし、困っている。』とのことを朝の車内で聞いていました。

岡田小学校の避難所への看護師派遣ボランティアセンターへ電話で依頼

『行政単位の話だから災害対策本部にも言ってほしい。』とのことだったので、電話して看護師が2人しかいない現状を伝えました。

フェイスブックでも看護師ボランティアが足りず困っていることを発信しました。

岡田小学校の避難所を訪れました。

横浜市立大学の先生とお話をするに当たり、できるだけ多くの人の建物に関する疑問点を聞いておこうと思いました。

岡田避難所でニーズ調査

浸水した建物をどうすればいいのか、皆さん目の前で困っていることを教えてくださいました。

そのときに聞いた、床下の水が出せなくて困っているという外国人の方のボランティア派遣のニーズをボランティアセンターへ電話して伝えました。

被災地では電波は弱く、片付けで疲れ、情報を追う余裕はないとのこと。

友人からのラインを追うのもしんどい。

避難所の掲示物の字は小さく、お年寄りには読めないのではないか。

たくさん出てくる情報を追いきれない…。

被災地では、届けたい人に情報がリーチできていません。

私も真備にいる間は電話すら繋がりにくく、情報がわからず混乱します。

被災地の情報伝達がどうなっているのか知りたくて、10時から薗小学校の地域の代表の方が集まる会議に出席させてもらいました。

皆さまゴミステーションへの張り紙等で伝えているとのこと。

現地を離れている避難所や自宅にいない被災者は全く把握できていないとのこと。

横浜市立大学の建築専門の先生と合流し、友人の実家へ行き建物の相談。

その時学んだ内容を必死でメモ。

託児施設のクロージングへ。

保育士さんに聞いた、お腹をすかせた子どもたちの様子に涙が出ました。

朝日新聞の方が来られていたので、子どもたちの置かれている現状を伝えてほしいとお願いしました。

疲れていたので丁寧な対応にならず、今は少し後悔しています。

詳細は、下記リンクに書きました。

担当の先生に託児について報告し、神原呉服店へ。

シャトルバスでの団体ボランティアを現地で運営している方に、岡田方面へのボランティア派遣はまだまだ先になると確認。

7月16日

メモリ、図っている状況がよく分かるように撮る。

フェイスブックに、昨日学んだ建物に関する情報をまとめてアップ。

Yちゃんと現況を話し合いながら真備へ。

色んなトラブルはあったけれど、看護師が少し派遣されたとのこと。

託児施設のオープニング。

頼もしい託児スタッフボランティアの皆様

神原呉服店のネット環境が改善されたので、ブログに建物に関する記事を投稿し、シェア

岡田地区のボランティア拠点の話は相変わらず進まない。

『ニーズがあるかないかもわからないのに、ボランティアは派遣できない。』といわれたので、ニーズ調査をしようか迷う。

広大な岡田地区。一人で回れるわけがない…。

託児ボランティアがたくさん集まり、余っているとの連絡を受け薗幼稚園へ。

午前中だけだけど、せっかくなので3名のボランティアの方と一緒に役に立つかはわからないことを説明しながら行ける範囲だけでもやってみようと、岡田集会所付近のニーズを調査にまわる。

ちょっと聞いただけで、たくさんのニーズがありました。

若い助けがなく、運ぼうにもゴミが運べない。

臭って困るとの声も。

連絡しないとボランティアはこないことを知っている人は、ほとんどいませんでした。

ボランティアセンターへ聞き取ったニーズをエクセルファイルにまとめてメールで送りました。

災害対策本部とボランティアセンターへ電話。

『素人の調査で漏れがあると思うけど、ニーズがほったらかしにならないようによろしくお願いします。』と、念を押す。

避難所の岡田小学校へ行き、地域の方が集まり、ニーズをまとめ、受け入れリーダーを決めない限り、ボランティアは当分来ないことを避難所の倉敷市職員に連絡する。

個人でできることはやりきったと思ったので、これ以上はどうしようもないと思う。

横浜市立大学の先生のご紹介で、今まで様々な災害現場を支援してこられた建物復旧アドバイザーの方が現地に来てくださりお二人と合流。

岡田地区と川辺地区2人の友人の家を実際に見て具体的なアドバイスをいただきました。

その内容を必死でメモ。

ちょっとフラフラし始める。

託児施設のクロージングへ。

情報交換し今後の活動の協力をお互いに約束。

神原呉服店へ。

ボランティア派遣を現地でしている方から、社会福祉協議会でのニーズ調査票の紙が数枚届けられていました。

届書の内容を避難者自身がまび記念病院へいって出さないと、やはりニーズはとどかないらしい。

現地で聞いて歩いた限り、誰もそんなこと知りませんでした。

いったいどうしたものかと思う。

17日以降のボランティア派遣も、川辺・有井・箭田を中心に活動予定

まだまだ道と数軒の片付けしか終わっていない。

片付けは、全然進んでいない。

ニーズ調査票を出している別の地区の個人のところへ、17日から行き始めたいと考えている。

毎日状況はかわるので、本当にそうなるかは分からないとのこと。

今からニーズ票をだしても岡田地区の順番はずっと後…。

刻一刻と状況が変わる中で、今あるニーズはそのときには必要ないのではないか…。

果たして自分がやっているとが意味があるのか、無いのか。

自分の立ち位置はどこなのか。

これから、どんな方向に進んでいったらいいのか。

何もわからない中、疲れもあってか、不安で仕方がなくなる。

託児の件で確認したいことがあったので薗小学校へ。

とにかく、この3連休まではがんばろう!ときめていたので、気が抜ける。

ちょっとしか会っていない、担当の先生と事務的な話しをしながら、ポロポロ涙が出てきました。

高知市職員の方が設定してくださったフェイスブックグループでも、自分の現状やわかったこと、したことを報告しながらサポートを受けています。

出逢った皆様には、感謝しかありません

我が家は散らかり放題。

いきなり忙しくなったお母さん。

子供は寂しがっています。

ママ友に遊んでもらい、あたたかなサポートを受けています。

実家の母も、毎日子供を見て、夕ご飯を作ってくれています。

旦那も、一言もするなとは言わず、見守ってくれています。

でも、お金も時間もかかること。

あまり理解してはもらえず、家庭との両立が課題です。

災害をきっかけに、否応なしに始まった生活。

もう、元には戻れません。

これから、自分の生活とバランスをとりながら長期的なサポートができるよう、周りの助けをおかりしながら、自分にできることを無理のない範囲で、やっていこうと思います。