先日受けたヨガの先生が放った言葉が頭から離れない。
鏡に映っている自分をよ〜くみてください。
自分の姿って、自分がこうだと思っているものと案外違うものなんです。
鏡に映っているあなたは、本当のあなたでしょうか?
あなたが思っているようなあなたが映っていますか?
鏡は魔物です。
何か違う物が映っていませんか?
子どもの予定のない日曜日、時々パワーヨガに参加している。
本当は毎週行きたいけれど、家族の用事でなかなか思うように参加できない。
今、私は通っているスポーツジムで、4人の先生からそれぞれのヨガレッスンを受けている。
どの先生も実に個性豊か。
ヨガにもいろんな種類があって、先生によって独特の世界観がそこに創出される。
それが素晴らしいといつも感心してしまう。
静かに自分の体と対峙するヨガの時間がとても好きになった。
私はダンス系はからっきしダメだけど、なぜだかヨガは初めから不思議なくらいよくできる。
それも嬉しくて、参加できなかったら悔しいくらい、大好きな時間になった。
鏡は魔物です。
楽しそうに唐突に語りかけてくれたのは、パワーヨガの先生。
いつもしっかりパッキリお化粧をしていて、声もハッキリ迷いがない。
いつも楽しそうで自信に満ち溢れている…、
ように私からは見える。
先生の口から出てくる台詞は、全て見事なワールドが炸裂していて本当に素晴らしい。
突き抜けて生きてきたんだろうなぁと勝手に考えてしまう。
この何かを極めた人のオリジナリティには、鍛え上げれた潔さがある。
先生に促されて鏡に映る自分自身を見てみる。
何十年も見慣れた顔がこちらをじっと見てくる。
.....。
確かになんだかよくわからないものが映っていた。
周りの人のことは自然に目に入るけれど、目は顔に張り付いているんだから、自分自身のことは自分で見ようとしない限り見えない。
人の目に自分がどう映っているのか、そんな客観的な眼で見てみるのも面白いですよね。
みんなの様子を面白そうに眺め、楽しそうに笑う先生。
人は自分の合わせ鏡だという。
たくさんの側面を、それぞれの人が映し出して教えてくれている。
夫から見える私。
子どもから見える私。
両親から見える私。
友達から見える私。
知り合いから見える私。
こうしてヨガレッスンに集まってきている集団の中で見えている私。
きっと同じ人は1人もいない。
みんな同じ人なのに。
全員違う人を見ている。
100人いれば100通り。
その断片を際限なくかき集めて固めた物が私なんだろうと思った。
そこには何もなかった。
自分が何者か確かめるために、自分ではないものを創り出した。
すると、反応が生まれた。
自分ではないものに出会い、自分自身を知る。
自分なんてものを知って果たしてなんの意味があるんだろうか。
何も知らなくていいような気になる。
人間関係なんて本当に面倒くさいし、知れば知るほどお互いの嫌なところが見えてくる。
なんとなく知ってるけどよくは知らない。
そのくらいが一番害がなくて良いではないか!
それなら踏み込まず、素知らぬ顔でそっとしておく方がよっぽど生きやすくて得策なんじゃないかと思う。
嫌なところも全部ひっくるめてその存在を丸っと受け入れる。
そんな域にまで達しないと平安は決して訪れない。
家族なんてものはまさに強制的にそれを学ぶシステムのようだ。
ゴールなんてものはなくて、善意のつもりが相手には悪意につながることもある。
異質なもの同士がなんらかの縁でごちゃごちゃと日常をかき混ぜる。
パワーヨガの先生のことはほとんど何も知らない。
先生とはヨガを挟んだ関係性だけでいるのが絶対にいい。
それで十分で、インパクトのある出会いが確かにある。